作文

おそらく現代の小学生も、その 98% は作文が嫌いだと思う。 もし今の小学校にも、読書感想文を書かせるという伝統が生き残っているのならば。 読書感想文を通して作文の喜びを知りました、なんていう人間がいるとすれば、 それは何かが間違っているのだ、と僕なら思ってしまう。 まあとにかく、僕は読書感想文が嫌いだった。というか、苦手だった。

ところが中学生になったときに、作文がひどく楽しいと思えるようになってしまった。 しかもそのきっかけは読書感想文だった。 この 180 度の方向転換が起こったのは、読書感想文に対する考え方が変わったのがきっかけだった。 それまで僕は、読書感想文を書くからには、先生に誉められるようなものを書かねばならんと思い込んでいた。 だがどのような感想が喜ばれるのか、なんてことはちっとも分からない。 あってないような基準を満たそうとあがくほど、作文は嫌だという気持ちが大きくなってしまうのだった。 だが中学校で読書感想文を要求されたとき、僕はもう先生のご機嫌をとるのはヤメだ、どうせうまい感想文なんて書けないんだから、好き勝手なことを書いてやる、いや奇妙奇天烈なことを書いてやると心に決め、そしたら妙に作文が楽しくなってしまったのだった。 本来読書感想文というのはそのような態度で望むべきだったのだが、良い子に見られたいという欲求を捨てられないがためにそれに気づかなかったということだろうか。 まあとにかく、好き勝手な作文ならば、楽しく書けるのだというときに気づいたのだった。

そのころ書いた感想文というのが、感想らしきことは書いてあるが、優等生的読書感想文とは全然違うものを狙ったものであった。 例えば普通の生徒なら抱くような感想とわざと違ったことを書くとか、物語の筋には全然影響しないような小さなエピソードを無理矢理誇張して取り上げるとか、課題本を読むのが嫌なので一行も読まず、感情的に「気に入らなかった」という愚痴を延々と書くとかいったことである。 もちろん日本語として正しくなければ感想文以前の段階で跳ねられてしまうから、 作文の流儀や文法だけはまじめに勉強して、ルール違反だけはしないように注意した。 しかし生成される文章はひどく奇妙なものが多かった。 例えばドン・キホーテの感想文はこんな感じだった。 ドン・キホーテというのは簡単に言えば、ボケ老人が自分を騎士と思い込み、旅先で勝手に暴れて皆の笑い者になるというコメディみたいなものである。 そこでこちらは「そんなかわいそうな老人を笑い者にするなんてひどい話だ」と簡単に切り捨てたのであった(もちろん、それを理由に半分しか読まなかったと言い訳も忘れなかった)。 こういった感想文は、似たような文章をさんざん読まされていた先生にとっても新鮮だったのか、ときたまひどく誉められることがあった。 そうなると勝手なもので、なんだか感想文を書くのがますます好きになってしまい、それからはどしどし作文が書けるようになったのである。

以前はつまらないテーマでもじゃんじゃか文章が書けたものだったのに、最近めっきり下手になったような気がして、満足のいくものが書けないでいる。 たぶん練習を怠っていたせいだろう。 学生のころはパソコン通信で毎日たくさんの文章を書いていたし、アルバイトで本を書いたりしていたから、量についてはとにかく今より何十倍も多かったのだ。 質については大したことはなかったが、今のようにちょっと書いては「あかん」といってすぐ捨ててしまうほど下手ではなかったように思う。 まあ、単にひどい文章を垂れ流していただけかもしれないが。 というわけで、思い付きで選んだテーマで随筆を書くこれは、リハビリ目的の作文練習である。

Aug-21-1997


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