橋のかけかけ

ある森の小道を、一人の兵士が歩いていました。 彼は三週間の休暇を利用して、故郷の村に帰る途中でした。 兵士は鍛えられた足を持っていたので、遠い故郷の村までほとんど休みなく歩き続けることができます。 彼はどんどんと、細い小道を進んで行きました。
森の小道の途中には、深い谷がありました。 その谷は二十メートルほどの幅があり、三十メートルほどの高さがありました。 谷底には、おそらくこの深い谷を長い年月のうちに作り上げたのであろう、細い小川が流れていました。 その谷には、小さな吊橋がかかっていました。 吊橋は人がひとり、やっと通れるほどの小さなものでしたが、それほど人通りも多くないこの場所には十分な橋でした。
さて、兵士がその橋の所を通りかかったのは、まもなく正午になろうという時刻でした。 兵士は狭い吊橋を渡り始めたのですが、半分ほど渡ったところで、奇妙な揺れに気づきました。 兵士は足を止めて、橋の様子をうかがいました。 そして、吊橋を支える綱のうち、ひとつが切れてしまっているのを見つけました。
兵士は吊橋の構造をよく知っていたので、その綱がなくても突然に橋が落ちてしまうことはないとすぐに確信しました。 けれどもその綱は、橋の安定を保つためには大変重要な綱でした。 このままでは橋がひっくり返って、深い谷底に振り落とされてしまいかねません。 兵士は後に引き返そうかと考えました。 しかし、兵士は橋のちょうど真中あたりにいました。 それなら、行くも戻るも同じことです。 兵士は、慎重に、ゆっくりと、残り半分を渡りました。 地面に足をつけると、さすがの兵士もほっとため息をつくほどでした。
さて、兵士はなんとか橋を渡ったわけですが、この橋をこのままほうっていくわけにはいきそうにありませんでした。 橋が壊れていることを知らずに渡れば、途中で落ちてしまいかねません。 なんとか修理する必要がありました。 兵士は、その橋を修理できるだけの知識をもっていました。 しかし、その修理のためには、必ず二人の人手が必要だということも知っていました。 橋の両側で、同時に行うべき作業があったのです。 これは、さすがの兵士にも手に負えない作業でした。
兵士は、一番近い村に行って、人を呼んでこようかと考えました。 しかし、ここから一番近い村までも、かなりの距離がありました。 行って帰ってくる間に、誰かがここを通りかかる可能性の方がよほど高いと、兵士は気づきました。 それなら、その通りかかった人に手伝って貰えばいい。 兵士は、その場に腰を落ち着けて、誰かが通りかかるのを待つことに決めました。


兵士が一刻ほど待っていると、森の小道を一人のおばさんがやってきました。 彼女は、橋のたもとの兵士をじろりと睨みましたが、何も言わずにその前を通りすぎ、橋を渡って行こうとしました。 兵士はそのおばさんに声をかけました。
「ああ、まってくれ。その橋は壊れているんだ」
「ええ、なんだって?」
「綱のひとつが切れているんだ。 そのまま渡ると、橋がひっくり返ってしまう。 修理しないと、危険なんだよ」
「あらまあ。いったいどうしてくれるの? あたしは向こう側に用があるのよ。 もっと大きくて頑丈な橋をかけておけば、こんなことにもならないだろうに、まったく」
「ああ、そこで相談だが、橋を修理する手伝いをしてほしいんだ。 おれが向こう側に渡るから、ちょいと…」
兵士が説明しかけると、おばさんはきいきい声で言いました。
「なんだいあんた、この私に手伝いをさせようってのかい?」
「ああ。 手伝ってくれるだろう? でないと向こう側には渡れないぜ」
「冗談じゃないわよ。 女のあたしが、なんでそんな手伝いをしなきゃいけないの。 あんたが、一人でなんとかしなさい」
「そうしたいところだが、できないんだ。 切れちまった綱を両側からひっぱらなきゃならない。 あんたに手伝ってもらわなきゃ、できない相談だよ」
「でも、あたしはいやだわ」おばさんは、ほんとうに嫌そうな顔をしていいました。 「まったく、とんでもない話よ。 あなた、そんな仕事を女にやらせるなんて、ひどいじゃないの」
「そんなことを言ってもなあ」 兵士は頭をかきながら言いました。 「最初に通りかかったあんたに、声をかけただけなんだよ。 第一、とにかく修理しないことには、橋を渡れはしないんだよ」
「あんた、いま向こう側に渡るって言ったじゃないか。 だったら、渡って行けるんじゃないのかい?」
「ああ、まあ、なんとかね。 でも子綱のひとつが切れちまってるから、途中で風が吹いたり、バランスを崩したりしたら、すぐにひっくり返っちまう。 あんたには、渡るのは無理だよ。 修理には、そんな時間はかかりゃしない。 あんただって、向こう側に渡りたいんだろ。 手伝ってもらうわけには、いかないかなあ」
「いえ、もう渡らなくてもいいわ」
「なんだって?」
「ほんと言うとね、今日はあんまりでかけたい気分じゃないんだよ。 呼ばれて、仕方なく出てきたんだ。 でも橋が壊れてるってんなら、言い訳もできるってもんだ。 都合がいいから、あたしは帰ることにするよ。 あんた、手伝いは、別の人に頼むといい。 じゃあね」
そういって、おばさんはすたすたともと来た道を引き返していってしまいました。 兵士はそれを眺めていましたが、やがてその場に腰を下ろして、次に誰かが通りかかるのを待ち始めました。


兵士が一刻ほど待っていると、森の小道を一人の男がやってきました。 男はとても急いでいるようすで、橋のたもとに座っている兵士に気づかず、そのまま橋を渡って行こうとしました。 兵士はその男に声をかけました。
「ああ、まってくれ。その橋は壊れているんだ」
「ええ、なんだって?」
「綱のひとつが切れているんだ。 そのまま渡ると、橋がひっくり返ってしまう。 修理しないと、危険なんだよ」
「ええくそ、なんてこった。 いったいどうしてくれるんだ。おれには急ぎの用事があるんだ。 なんとしても、ここを渡らなければ」
「ああ、そこで相談だが、橋を修理する手伝いをしてほしいんだ。 おれが向こう側に渡るから、ちょいと…」
兵士が説明しかけると、男は大声で怒鳴りました。
「ちょっとまった、修理なんて、そんな時間はないんだよ」
「しかしだね、修理しないと、渡るなんてのは無理な相談だよ。 修理には、そんなに時間はかからないさ。 今すぐにとりかかればね」
「いや、やっぱりだめだな」男は言い放ちました。 「ここであんたと話をしているヒマさえないんだ。 さあ、急いで渡らなきゃ」
「しかし、橋は壊れているんだよ」
「あんた、さっき向こう側に渡るといったじゃないか。 するとつまり、渡れないわけじゃないんだろ?」
「そりゃまあ、たしかにそうだがね。 でも子綱のひとつが切れちまってるから、途中で風が吹いたり、バランスを崩したりしたら、すぐにひっくり返っちまう。 あんたには、渡るのは無理だよ」
「なあに、あんたみたいなでかぶつに渡れて、おれみたいな身軽なやつに渡れないわけないじゃないか」
そういって、男は止めるのも聞かず、橋を渡り始めてしまいました。 兵士は後を追いかけようとしましたが、なにしろ綱の切れた吊橋です。 後を追うなんて、無理な話でした。 兵士は大声で、気を付けろと叫ぶのがやっとでした。
男は、すいすいと橋を渡っていきました。 半分あたりまでは、順調に進むことができました。 そこで男は油断したのか、それとも風が吹いたのか、最初に兵士が気づいたあの不吉な揺れが、吊橋全体を襲いました。 男は吊橋の構造を知らなかったので、揺れを止めるためにどうすればよいか分かりませんでした。 兵士が何もできずに見ているうちに、吊橋はぐるりとひっくり返りました。 男は綱につかまることもできず、真っ逆さまに谷底へと落ちていってしまいました。 兵士はそのぞっとするような光景を、目をそらすことなく眺めていました。 なにしろ戦場では、もっと残酷な死に様を見ていたのです。 でも、慣れることのない寒気を感じないではいられませんでした。 兵士はぶるっと身ぶるいをすると、また別の誰かが通りかかるのを待ち始めました。


兵士は一刻ほど待っていました。 しかし、他には誰も通りかかる様子がありませんでした。 兵士は、これなら村まで行って、誰かを呼んでくる方が早いかもしれないと思い始めました。 しかし、すでに人が落ちているのを見ていたので、とてもこの場を離れるわけにはいきませんでした。 兵士は、辛抱強く待ち続けました。
そしてとうとう、森の小道を一人の若者がやってきました。 彼はなにやら考え事をしているようすで歩いていましたが、橋のたもとの兵士に気づい て、声をかけてきました。
「こんちは。 こんなところで休憩かい」
「いや、そうじゃないんだ」兵士は答えました。
「実はこの吊橋の、綱が切れてしまっているんだ。 だから、あんた、渡れないよ」
「へえ、そりゃ困ったな」
若者はそうは言ったものの、全然困ったようすには見えませんでした。
「綱が切れてるって、どんな具合だい?」
「四本ある子綱のうち、一本が切れちまってるのさ。 途中までいくと、橋がひっくりかえっちまう。 下手をすれば、谷底に真っ逆さまだ。 そこで相談なんだが、修理するのを手伝ってくれないかね」
若者は、反対側をじっとにらんで言いました。
「ああ、いいよ。 できることならなんでもしよう」
「ありがたい。 じゃあ、ちょっとここで待っていてくれ。おれが反対側に渡るから」
「へえ、でも橋は渡れないんだろ。 どうやって向こう側へ行くんだい」
「実は、おれは一度この橋を渡っているんだ。 まあなんとか渡れたんだが、あぶないことに変わりはないよ。 それに一度、他の誰かが無理に渡ってね。 橋はひっくり返って、そいつは落ちてしまったよ」
「ふうん」
若者は谷底をちょっとのぞき込みました。
「でも、あんたは体重もありそうだし、もう一度渡るのはあぶないんじゃないかな」
「まあね。 しかし、 これは危険なことだ。あんたに頼むわけにはいかないよ。 それにおれは、訓練を積んだ兵士だからな」
「ふうん。 でもやっぱり、僕の方が渡るよ。 あんたはここで待っててくれないかな」
若者は、そういって橋を渡り始めました。 兵士は若者が渡るのを見ていました。 若者は、見かけによらず身の軽い男でした。 橋の半分を過ぎても安定を失うことなく、彼は無事に橋を渡り終えました。 若者は、反対側から大声で叫びました。
「さて、どうすればいいんだい?」
「よし、支柱が二本あるだろう。 右側の支柱を見てくれ」
「ああ、これだな」
若者は木の柱に手をかけました。
「綱が三本張られているだろう。 上のが親綱で、下のが子綱だ」
「ああ、分かる」
「一番したの子綱を、ほどいてくれ。 おれもこっちで、 同じことをするから。 それから、ほどくときには注意してくれ。 急に綱が引っ張られて、谷底に落ちてしまうかもしれない。 いざというときは、綱を放してしまっていい」
「分かった」
二人は橋の両側で、子綱をほどきにかかりました。
「よし、ほどけたら、次はとなりの支柱だ。 こっちの、上の子綱が切れてしまってる。 三本あるうちの、真中の綱だ。 そっちの支柱には、まだ子綱が残っているだろう。 そいつをほどいてくれ」
若者は言われた通りにしました。
「じゃあ、ちょっとばかしこっちにたぐり寄せるから、引っ張り込まれないように注意しててくれよ」
兵士は切れた端をつかんで、ぐいぐいと引っ張りました。 そして自分の側の支柱のところまで、子綱をたぐり寄せました。
「一度支柱に巻き付けて、それからひっぱるんだ。 声をかけるから、同時にな」
「分かった。やってくれ」
「いち、に、さん!」
二人は同時に綱を引きました。 ぐいっと引っ張られた綱はぴんと張って、橋を支える子綱となりました。
「よし、これでいい。 もう一度、元通りに結び直すんだ。 説明するから、言う通りにしてくれ。まず…」
「ああっと、これは <かんげん結び> だろう?」
「うん、その通りだ。知ってるのかい?」
「登山家に、一度習ったことがある。 結び目を見て、思い出したよ」
「ふむ、じゃあそれは本物の <かんげん結び> だ。 知っているなら、その通りに結んでいいよ」
二人は綱を支柱に結びつけました。
「よし、最後に、さっきほどいた子綱を結ぶんだ」
二人は子綱をたぐりよせ、引っ張り直し、そして結びつけました。 全部の作業が終わるのに、ちょうど一刻ほどの時間がかかりました。
「これで終わりかい」
「ああ、これで終わりだ」
兵士はそういって、橋を渡り始めました。 橋はきちんと元通りになっていました。 兵士は、橋の真中で、試しに二、三度跳ねてみました。 しかし、橋はちゃんと安定を保っていました。 兵士は満足すると、若者のいる側に渡っていきました。
「ありがとう、お蔭で助かったよ」
「ああ、直ったようだね」
「おれはこれから故郷の村に帰る。 途中で街に寄って、本物の職人に修理させるように頼んでいくつもりだ。 あんたはどうするんだ?」
「僕の行き先は、向こうなんだよ」
若者は、兵士の故郷とは反対の方向へ顎をしゃくりました。
「そうか。じゃあここでお別れだな」
「それじゃあね」
若者はそれだけ言うと、すたすたと森の小道へ消えて行きました。 兵士は黙ってそれを眺めていましたが、やがてくるりと振り向いて橋を渡り、反対の方角へと歩いて行きました。

今日いっぱい歩き続ければ、夜には故郷にたどりつけそうでした。

おわり


[back to index]