死の抱擁

<山脈>は高い山々から成り、<村>とよその土地とを遠く隔てていた。 ただ一ヶ所<木々の谷>だけが、<山脈>についた傷のように山を削っていて、 よその土地へと続く街道としての役割をはたしていた。 街道を行き来する者は少なく、遠くの土地からやってくる商人や、 限られた旅人だけがたまに通る程度だった。
 シンは<木々の谷>を行き交う旅人の一人だった。 彼は何度も<木々の谷>を通り、よその土地を旅してきていた。 しかしシンは今、街道から遠く離れた、<山脈>の中でも高く険しい山の、 風が吹きすさぶだけの岩肌にしがみついていた。

 彼はこの不毛の土地に、特殊な草を求めてやってきたのだった。 <カラカサソウ>の根はある種の熱病に対して特効薬であり、 その薬が<村>で必要とされていた。 体の弱い少女が、その熱病にかかったのだ。
 村の医者は<カラカサソウ>から薬を作る方法を知っていた。 しかし医者はそれがどこに生える草なのかを知らなかった。 <村>の住人は誰も、<カラカサソウ>の在処を知らなかった。 ただ一人、シンを除いて。
 シンは旅先で会ったある染物師が、 繊維を染めるために<カラカサソウ>を使ったのを憶えていた。 その染物師と<カラカサソウ>を採りに行ったことがあるのだ。 <村>の住人のなかで、<カラカサソウ>について知る人間はシンだけだった。
 そこでシンは、この山までやってきたのだ。

 しかし、山はシンを脅かしていた。 シンは斜面で転倒し、怪我をしていた。 頬には深い傷があり、血が固まっていた。 しかしシンはその傷の痛みを感じなかった。 シンの心は疲労と寒さから擦り切れてしまい、 すでに感覚が麻痺してしまっていたのだ。
 風はかなり強かった。 岩ばかりのこの場所では、風は容赦なく吹き付けてくるのだ。 シンは大きな岩をひとつみつけた。 いくらか風を避けることができるその岩の蔭に、シンはよろよろと座り込んだ。
 シンは座ったまま、じっと何かが起こるのを待っていた。 風がおさまる事か、体力の回復か、それはシンにも分からなかった。 とにかく待つことが肝腎だった。 しかし実際には、シンには動き出すだけの精神力がなくなっていたのだった。 シンは風や体力のせいにして、ただじっと動かずにいるだけだった。

 長い時間が過ぎたような気がした。 シンはふと、少し離れた場所にある、やはり大きな岩の上に、 何かがいるのに気づいた。 それは銀色の毛を持つオオカミだった。 オオカミはギロリとシンを睨んだ。 優雅な動作で岩から飛び降り、シンの目前までゆっくりと歩みよってきた。 オオカミは足をとめ、しばらくシンをみつめていた。
「なんのためにここまで来たんだ?」
 それはオオカミの言葉だった。 オオカミがシンに問いかけたのだ。 シンは驚いたものの、その問いに答えていった。
「なぜって……病人のためさ」
「病人のためかね? ほんとうに?」
「ああ、そうだよ」
「それは嘘だね」
「……なぜ嘘だなんて言えるんだい?」
「病人が治るということは、すなわち君にとっての喜びだからさ。 君は自分のために、病人を治すのさ。 だから、君がなんのためにここに来たのかというと、本当は自分のためなのさ」
 シンはそんなオオカミの言葉に面食らった。
「そりゃそうかもしれないけど……」
「他にもある」
 オオカミの目がきらりと光ったように見えた。 それは冷酷な光りに見えた。
「病人が助かれば、それは君の努力に負うところが大きいからな。 君はきっと多くの人々に感謝されるだろう。 君はみんなに感謝されて、いい気になっていられるというわけだ。 みんな君に一目置くようになる。 病人が助かれば、だ」
 シンはとっさに答えを言いかねた。 オオカミはかまわず先を続けた。
「君は村の人間たちにはよく思われていないだろう? なにしろ 年中旅行ばかりして、家を空けたままだからな。 まともな人間なら働いているときに、 遊び回って暮らしていると思われているからな。 村の連中は、君が旅先でどんなことをしているのか知らない。 それどころか、旅先で汚い商売をしていると思っている者さえいる始末だ。 本当の君を知る人間は少ない」
「そんなこと、僕はかまいやしないさ」
 シンは言い返した。 しかし、オオカミはその言葉を聞き損ねたようで、 まるで気にしていない様子だった。 風の音に、シンの声がかき消されたのだろうか?
「君は村の連中に、自分が役立つことを証明しなければならないのさ。 だから、この仕事はぜひともやり遂げなくてはならないわけだ。 病人を助けることができれば、君は村の人間にも認めてもらえる。 君は利己のために、この山までやってきたというわけさ」
 それはちがう、とシンは叫びたかった。 しかしシンにはオオカミの何が間違っているのかが分からなかった。 寒さのせいだろうか、疲れているからなのだろうか。 シンは必死で考えた。 オオカミの言葉は間違っているはずだ。

 しかし、シンはふと気づいた。 なぜオオカミを説得しなければならないのだろう。 この山に来たのは、熱病にかかった少女のためかもしれないし、 自分のためだったかもしれない。 オオカミの言う通り自分の印象をよくしようという 利己主義的な発想なのかもしれない。 でも本当に重要なのは、そういうことではなかったはずだ。
 シンにはオオカミと話をしている時間はないはずだった。 少女は病床で、シンの帰りを待っているのだ。 シンは、オオカミがこの場を去ってくれればよいと願った。
 突然オオカミが動いた。 オオカミは何も言わず、くるりと振り向いた。 軽がると岩の上に飛び上がり、そのままシンの視界から消えて行った。 シンはオオカミの後ろ姿を見ながら、ふぅとため息をついた。

 突然シンは、すぐ目の前に<カラカサソウ>を見つけた。 今までオオカミが座っていた場所の、その向こう側に草が生えていたのだ。 <カラカサソウ>は風に耐え、堅い岩場にしっかりと根を下ろしていた。
 シンはしびれきった体を無理やりに動かして、草の生えた場所まで這っていった。 シンは心の中で、<カラカサソウ>を教えてくれた染物師に詫びた。 染物師はシンに、最初に見つけた草は採るなと教えられていたからだ。 しかしシンには、二つめの草を探す余裕がなかった。 シンはペグを取り出し岩を掘り始めた。 根を傷つけないように、少しずつ掘っていった。 寒さに震えながら、シンは草を地面から引き離した。
 シンは慎重に草を包んだ。 それからゆっくり立ち上がると、ふらふらと山を降りていった。
 下山にはそれほど時間はかからなかった。 やがて風もやみ、精神力も回復していった。 道が平坦になり、<村>への街道にさしかかる頃には、 シンはすっかり元気になっていた。 シンは仕事をやりとげたという満足感を味わっていた。 後は<村>に帰り、医者に草を手渡すだけだった。 <村>にたどり着いたのは、まもなく夜も明けようかという時間だった。 <村>はしんと静まりかえり、道には誰の姿も見えなかった。 ただ少女の家にだけ、明りがともっていた。
 シンはまず先に医者に引き合わされた。 医者はシンの顔の傷を手当した。 傷を洗い、跡が残らないように処置をすると、 医者はシンを少女の部屋に連れていった。
 少女の部屋には、家中の者がみな集まっていた。 入ってきたシンを、みなが一斉に振りかえった。 そしてまた、ベッドの上に横たわる少女に視線を戻した。
 少女はベッドの上で、眠ったように死んでいた。
 医者はシンの顔色をうかがった。
「私の負けだよ」
 医者はシンにしか聞こえないようにそっとささやいた。
「これは君との競争だった。 私は君が帰るまで、彼女を生きながらえさせることができなかった。 私が負けたんだ」
 しかし、シンにはそんなことには興味がなかった。 シンは壁際に立って静かに少女の顔を見下ろしていた。 やがて医者がよそへ行ってしまい、だれも見ていない間をうかがって、 シンはそっと部屋を出て行った。

 家に続く道を歩きながら、 シンは少女の死について考えないわけにはいかなかった。 少女は死の瞬間、何を思っていたのだろうと、シンは考えをめぐらせた。
 意識がなくなる瞬間は、眠りの時にも体験している。 それはシンにも理解できた。 死によって意識が消え去る瞬間は、眠ることとそれほど変わらないように思えた。 少女のような緩やかな死は、おそらく眠りに落ちるときと変わりはしないだろう。 実際少女の死に顔は、眠っているのと区別できないほどだった。 ただ二度と目覚めないことを除けば。 やがて体が朽ちてしまうことを除けば。
 シンは山の上で、死にゆく間際を体験したのだろうか。 あのオオカミとの会話は、死に至る過程のひとつだったのだろうか。 しかし、シンにはそれが合理的な考えだとは思えなかった。 あのオオカミは、明かにシンの幻想だった。 寒さに震えるうちに見た、夢の一部に違いなかった。 だから夢を見るうちに死に行く点については、少女と同じであるように思えた。 あのままオオカミとの会話を続けているなら、 シンは永遠に山の上にとどまっていただろう。 シンは自分が偶然にオオカミとの会話を放棄したことを思い、それに安堵した。
 死にかけるほどの苦労はむくわれるのだろうか。 シンはあまりそのことについて考えたくなかった。 医者は自分に非があると言った。 しかし、彼が負けたのと同様に、シンも勝負に負けているのだ。 少女の死より先に、帰りつくことができなかったのだ。 山の上でぼんやりしている間に、とっとと帰ってこれればよかったのだ……。
 シンはそういった考えをもてあそぶのをやめた。 自分にも他人にも、誰を責めても少女が死んだ事実を変えられない。 だったら、そういう無駄なことは考えるのはやめよう。 シンはそう結論した。

 家につくころには、太陽は地平から顔を出し、シンの顔を照らすまでになっていた。 シンはリュックの中から<カラカサソウ>を取り出し、 植木鉢に植えかえた。 そうしても、草が二、三日しか持たないことをシンは知っていた。 草は過酷な高山でしか育たないのだ。 シンはとりあえずの睡眠をとる間、草の命をながらえておこうとしたのだ。
 シンは大きな木の椅子に深く座り込み、静かに目を閉じた。 シンは眠りに落ちるまでの間、<カラカサソウ>を使って何を染めるかを考えていた。

おわり


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