ふたり暮らし

  五時になったらさっさと帰ろうという栞里のささやかな夢は、 突然の会議で無惨に打ち砕かれた。 会議が終ったのは八時のこと、夕飯の買いものなどしている元気はすでになく、 とりあえず家まで戻ることにした。
  すでに九月も終りというのに、前日までひどい残暑が続いていた。 しかし今日はとても秋らしい日で、涼しい風が頬に気持ち良かった。 栞里は一瞬心を和ませたが、腹の虫のお蔭ですぐに現実に引き戻されてしまう。 栞里は早足で、アパートまでの道を急いだ。
  栞里はアパートにたどり着くと、鍵を開けて中に入った。 玄関先から、 部屋に敷きっぱなしになった布団の上に倒れている裕太の姿が見えた。 栞里はそっと足音を忍ばせながら部屋に入った。 部屋を横切ろうと、雄太の上をそおっとまたいだのだが、 雄太は気配を感じ取ってすぐに目を開けてしまった。
  栞里はにっこり微笑んで、部屋の奥へ引っ込んだ。 まず上着とシャツを脱ぐと、黒いTシャツを選んで着替えた。 それからスカートとパンストを脱いで、細いジーパンに足を突っ込んだ。 最後にまとめあげた髪を解いて、心からの解放感を味わった。 スーツはともかく、固くまとめた髪だけはどうにも好きになれない。 いっそのことショートカットにしようかと、今日も栞里は心の中で思った。
  いったんクシャクシャにした髪を適当にブラシでとかしてから、 栞里は裕太のいる部屋の方に戻った。 裕太は目を開けてはいるものの、寝惚けまなこで布団の上にしゃがみこんでいた。
  外食に出かけようと思っていた栞里は、 そのまま裕太を置いていこうかと思案した。 裕太は、深夜の警備員の仕事をしていた。 つまり彼にとっては、今はちょうど朝というわけなのだ。 まだ仕事の時間には間があるから、もう少し寝かせておいてもいい。 でも、ひょっとしたら空腹かも知れない。
「おはよ。もう起きる?」
  裕太はちょっと眉を上げると、いつものゆっくりとした口調で答えた。
「そやね」
「モンブラン行くけど」
「そっか」
  裕太は眠そうな目をこすりながら立ち上がった。 はっきり返事はしなかったが、一緒に行こうと決めたようだった。 二人は連れだって、スパゲティ屋までの道を歩いた。
  栞里と裕太が二人で共同生活を始めて、すでに一年近く過ぎていた。 栞里が今の仕事に就く前のこと、 バイト先の弁当屋で知りあったのがそもそものきっかけだった。 生まれも趣味も学歴も違う二人の共通点は、金がなく貧乏だということだけだった。 そしてとうとう栞里がアパートの家賃を払えなくなって追い出されそうになったとき、 裕太が共同生活を提案したのだった。 実は裕太も家賃が払えなくて、数カ月後には追い出される運命にあったのだ。
  二人は内輪の契約を結んだ。 それは裕太が栞里の家賃の半分を出す、 その代わり栞里のアパートに裕太も住むというのだ。 裕太がアパートを引き払い、 栞里の方を頼ったのには理由があった。 栞里の家の方が二千円安かったのだ。
  こうして二人は同じ屋根の下暮らすようになった。 が、二人は決して恋人同士と言えるような関係ではなかった。 一年間同じ家に暮らしているにも関わらず、共通の趣味はできなかった。 栞里も裕太も非常に無口で、 同じ部屋に二人っきりでいながらも何時間も口をきかないのが当り前だった。 別に遠慮とか、他人行儀というわけではない。 裕太も栞里も、マイペースで生活するのに慣れ切っていたのだ。 二人はどちらも、同居人以上の関係になりたいと望みはしなかった。 二人は利害関係の一致によって結ばれていたのだ。
  スパゲティ屋は小さな店だった。 楕円形のカウンターとテーブルが二つだけの狭い店を、 マスターが一人でバイトも使わずに切盛りしているのだ。 大盛りスパゲティが安く食べられるという利点があり、 裕太お気に入りの店だった。 客は裕太と栞里の他に、学生風の男が一人だけだった。 二人はカウンター席に座り、注文をした。
  栞里は、 マスターがスパゲティを鍋に向かって放り込むのをぼんやりと眺めていた。 今日は仕事で疲れていたし、空腹で頭がはっきりしないほどだったのだ。 裕太はそんな事情とは無関係に、普段通り無口でおとなしくしていた。 やがてスパゲティが出来上がり、二人の前に皿が並んだ。 二人は黙ってそれを食べ始めた。
  皿が半分ほど空になったときだった。 裕太が、思い出したように口を開いた。
「そういや、栞里さんな」
  裕太は栞里を「さん」付けで呼んでいた。 わずか三カ月だけなのだが、栞里の方が年上なのだった。 たったそれだけのことで「さん」付けにすることはないと、 栞里は言ったことがあったのだが、 裕太は「ま、なんとなく」と返事をしたのだった。 それきり、今まで「さん」付けは続いていた。
「なに?」
  栞里は口をもぐもぐやりながら答えた。 裕太は、何か気遅れするように先を続けた。
「わて、引っ越そうと思うねん」
「へえ?」
  栞里は慌ててスパゲティを飲み込んだ。裕太はあいかわらずのんびりと言 葉を続けた。
「栞里さんもちゃんと仕事してるし、生活費は大丈夫やろ。 ま、そろそろかな、と思うてな」
「まあ、あたしは平気だけど……。でも裕太はどうすんの?」
  それは率直な意見だった。 今では栞里はちゃんとした事務員の仕事を持っている。 一方裕太は、依然として不安定な収入しか得ていなかった。 今の警備員の仕事も、単なるアルバイト程度でしかない。 彼は、生活していけるぎりぎりだけしか働かないのだった。 それなのに、急に一人で暮らすなど無理な話だ。
「……そういえば最近は旅行してなかったね。お金貯めてたの?」
「まあな」裕太は関西人らしく、真中にアクセントをおいてそう返事した。 「お蔭で、結構『溜った』ような気がするわ」
  栞里はスパゲティの皿に目を戻してニコリとした。 裕太のいう「溜った」というのは金のことではない。 普段から裕太は「何か、もあっとしたもの」が心の中に溜っているというのだ。 裕太は旅を趣味にしていた。 少しでも金を貯めると、その、もあっとしたものを落しに旅に出かけるのだ。 それは三日ぐらいのこともあるし、二週間に及ぶこともある。 その間、裕太は写真を撮りまくる。 裕太の生活は、旅行と写真と旅費稼ぎがすべてなのだった。
  そんな旅行を控えてまで引っ越そうとする理由が、 栞里にはよく分からなかった。 まあ、実をいえばなんとなく始まった共同生活だ。 無理に続けていく理由は何もない。 だがそれにしても、栞里にとって引越しの話はずいぶん急に聞こえた。
  しかし、裕太は理由を説明しようとはしなかった。 皿に視線を落したまま、じりっと口の端に笑みを浮かべている。 栞里はそれを見逃さなかったが、かといって理由を問い正そうともしなかった。 そうして食事をしながら考えこんでいたら、果たして裕太がどこまで本気なのか、 段々あやふやに思えてくるのだった。
  二人は食事を済ませると、さっさと店を出た。 アパートへ戻る途中でも、二人は無言のままだった。 が、栞里が玄関の扉に手をかけたとき、裕太が再び口を開いた。
「わてな、つきおうとる奴がいるねん」
「へえ??」
  栞里は思わず裕太の方を振り向いた。 すると裕太が、顔を赤らめて恥ずかしそうにしているのに気づいた。 栞里は思わず吹き出しそうになった。 どうやら、裕太にとっては思い切った発言だったようだ。
「いつから?」
「いつって言うてもな……。まあ、一カ月ぐらいかな」
「どこで知りあったの?」
  部屋に入って、栞里はそう問いかけた。
「さあな……」
「さあ、って、忘れちゃうようなことかなあ」
「旅先やねん、で、どこだか忘れてもうた」
「こっちの子じゃないんだ」
「今は田舎からこっちの方に出てきとんねん」
「ひょっとして、裕太を追いかけてきたとか」
「いんや、こっちの方の会社に就職したんやと」
「なるほど、じゃあ一緒に住むんだ」
「そう決めた訳やないんやけどな……、 なんちゅうか、けじめってやつかな」
  やたらと言いにくそうにしていた裕太は、絞るようにそういった。 栞里には、裕太の言いたいことはすぐに分かった。 二人の間には何でもない、だが一緒に暮らしているのは確かだ。 いくら声を大きくして言っても、誤解は避けられない。
「その子、名前なんていうの?」
  栞里は急に話題を変えた。 なんだかいたたまれない気分になっていたのだ。
「名前なんか関係あるかね」
「いいじゃない、減るもんじゃなし」
「美穂ちゅうねん」
「へーえ。かわいい?」
「さあなあ」
「なんだ、気のない返事ね。写真は? あるんでしょ」
「ない」
「うそだ」
「いやホント」
「照れることないじゃない」
「ホントにないって!」
「うーむ」
  栞里は裕太の撮る写真はほとんど全部見ていた。 裕太は風景も人もお構いなしに撮り巻くってくる。 いまさら人を撮るのに恥ずかしがる訳がなかった。 ああ、何か特別な人なんだな、と栞里は不意に思い当たった。

  それから程なくして、裕太は昼間の仕事を取ってきた。 むろん深夜の警備員の方が楽に稼げるのだが、 彼女のためにも昼の生活にペースを合わせるべき時が来ていたのだった。 そして裕太は、住まうためのアパートも見つけてきた。 話によると、四畳半一間の今時珍しい部屋らしい。 だが、裕太はもともとそんなことを気にもかけなかった。
  裕太の荷物はまとめてみると、非常に少なかった。 布団と衣類だけ宅急便で送ってしまうと、残ったのはカメラの入ったバッグと、 これまで撮ってきた写真のダンボール箱一つだけになってしまった。 箱の中には、フィルムがぎっしり入っていた。 紙焼きにするとかざばるので、すべてフィルムのまま残してあるのだ。
  裕太はバッグを肩にかけ、箱を抱えて玄関を出た。 栞里も一緒に、駅までの道を歩いた。 いつものように、二人は黙ったままだった。
  アパートを出て、曲がりくねった道を進み、やがて商店街に出た。 夕刻の人の多い道を抜け、電車の駅にたどり着く。 裕太は切符を買い、改札の前で足を止めた。 ダンボールを脇に抱えると、空いた右手をつっと栞里に差し出した。
「ほな、これで」
  栞里は微笑んでその右手を取った。 裕太はぐっと手に力を込め、そしてきっぱりと改札に向かって歩いて行った。
  栞里はぬくもりの残る手の平を見つめた。 そして、始めて自分が震えているのに気がついた。 栞里は顔を上げて、裕太の姿を探した。 階段の方に消えていく裕太の背中がちらりと見えた。 電車が到着する振動が響いている。 多くの人が、逃すまいと走り始める。
  栞里は、ぼうっとなって改札の前で立ちつくしていた。 やがてベルが鳴る音が聞こえた。 再び電車の振動が伝わってきた。 降りてきた客が、どっと改札の方に押しかけてきた。
  今になって、こんなやるせない気持ちになるとは思ってもみなかった。 栞里は自分自身にびっくりしていた。 だが、もうすべては遅い。 裕太が家を出ると言ったあのときに、すべては終った。 なにしろそのことに、たったいま気づくほど自分はとろいのだ。
  栞里は振り返ると、家までの道を戻り始めた。 半分まで来たところで、頬を伝う涙に気づいた。 でも栞里はそんなことにかまっていられなかった。 栞里は、ただまっすぐに家を目指し、ひたすらに歩いていった。

おわり


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