漢字

1945年に日本が無条件降伏したとき、アメリカは日本語をやめにして英語を話させようと計画したらしい。 このとき、日本語から英語への全面転換は難しいと感じたのか「犬が走る」というのを「dog が run」のようにするような計画も考えられたのだそうだ。 結局日本語の廃止は実行されなかったのだが、「ソフトをインストールします」というような言い回しがまかり通っている現在、どうせなら全面的に英語にしてもらった方がよかったんじゃないかなという気がしないでもない。

日本語の特徴と言えば、やはり漢字とひらがな、カタカナという書き文字の数の多さであろう。 ひらがな、カタカナはそれぞれ50個ほどの数があるし、漢字は、常用漢字に限っても1945字(おお、無条件降伏の年と同じだ)もある。 日本語を話し、日本語で読み書きするためには、すくなくともこれらの文字を習得しておかなければならない、ことになっている。 だが、この文字の多さというのは、やはり学習の際に大きな障害となってしまう。 たとえば、学校で教えられている学習漢字は881字にのぼるが、実際に(かな漢字変換の助けを借りず、自分の手で)書ける漢字の数なんて、せいぜい100字ぐらいじゃないかと思う。 いや下手をすれば、50字ぐらいかもしれない。

日本語を話すだけならば、実のところ漢字の学習などまったく必要はない。 基本的に言語というのは、音から成り立っているわけで、その音を聞く耳と、話す口さえあれば習得は可能だからだ。 しかし日本語では、それを書きとるときに、なぜか漢字を使いたがる。 音を表現するだけならば、ひらがなだけで十分であるにも関わらず、だ。 それが日本語の特徴、性質のひとつなのだと言ってしまえばそれまでだが、その必要性は果たしてどれほどのものなのだろうか。

もし漢字がなく、単純に音を表すだけの記法が採用されたとすると、僕自身もちょっと困ったことになるだろうな、と思う。 それは試しに、文章をすべてひらがなで書いてみれば分かる。 書いてある内容は、漢字かな混じりとまったく同じ文章でも、かなのみで書いた文章はひどく読みづらい。 しかし、これこそ漢字を使う理由なのかと言えば、実はそうでもない。 かなのみの文章が読みづらいのは、単にそれに慣れていないからにすぎない。 子供の頃からかなのみの文章に慣れ親しみ、世の中すべてがかなのみの世界になってしまえば、今感じるような困難や違和感などまったくなしに言語生活を過ごせると思う。 漢字かな混じり文に慣れきってしまっているからこそ感じる違和感なのだ。 もしすべての漢字を廃止してしまい、音をかなで表記することにしてしまえば、国語学習はもっと簡単なものになるはずだ。 実際のところ、現代の国語教育は、大部分の時間を漢字の書きとり練習にとられてしまい、肝心の日本語を使った作文能力とか、文章の内容の把握能力を養う学習ができない状態になっている。 文字なんて、記憶を助けるために書き留めておくための道具にすぎない。 本当に大切なのは言葉を駆使して行うコミュニケーションの方法であるはずなのに、だ。

しかし漢字の廃止については、大半の人々がナンセンスと思ってまじめに取り上げようとしない。 というのも、日本語にとって漢字とは切っても切れない関係にあるものという思い込みが強く、漢字がなくなってしまったら日本語は日本語でなくなってしまうと考えているからだ。 漢字を生かし、使い続けられるようにするために、どれだけの金と労力がかかろうとも、必ずそれを実行していこうというパワーには、ちょっと驚かされるほどである。 たとえば、コンピュータで漢字を使うというのは、ものすごいコストを必要とする。 現在コンピュータでは数万個に及ぶ漢字を扱う能力を持っているが、そのためには専用のコードセットと、それに対応する書体を実装することを意味する。 また、その数千、数万におよぶ漢字を、キーボードという貧弱なインターフェースを通して入力する技術も必要だ。 このために日本では、入力された読みを漢字に変換するソフトを作り上げてしまった。 これには、数十万語の単語の読みと表記を記憶した辞書も含まれている。 これらを作り上げるために、数十年に渡る努力が払われているのだ (しかも現在に至っても、あまりよいものはできていないような気がするのは、僕だけじゃないと思う)。

一方、このように努力を重ねて守られてきたはずの漢字文化は、近年ますます冷遇されているように見受けられる。 たとえばそれは、常用漢字という制度に現れている。 常用漢字とは、一般の言語生活で用いるうえの目安として定められた漢字の表のことだ。 つまり、最低限これだけ学べば一般生活に支障はないという漢字の集合なのである。 このことは、常用漢字以外の文字は使わない、使えないというルールを作り出してしまう。 新聞や雑誌、法令や公用文書では、常用漢字だけが使われる。 出版者やそれぞれの編集部の方針によって異なる基準が使われるものの、常用漢字以外の文字はまったく使われないか、似た文字で置き換えられてしまうか、そこだけひらがなで表記されることになる。 漢字の数を制限するという常用漢字が作られた背景には、難解な漢字を排して学びやすくすることが目的だったのだが、逆に常用漢字でない漢字をすべて殺してしまう結果になっているのである。

莫大なコストをかけて導入したはずの、漢字をコンピュータで扱うための仕組みも、漢字文化の衰退に一役買っている。 読みを知っていさえすれば使いこなせてしまうかな漢字変換システムのせいで、難しい漢字はもちろん、ごく基本的な漢字でさえ書けなくなってしまう人が増えているのだ。 漢字の書きとりは、普段からの鍛錬がなければ忘れられてしまう能力だ。 その能力が、コンピュータという便利な道具のために退化してしまうのである。 ワープロを使えば、難解な文字を駆使して文章が書ける人でも、紙とペンではロクに書けない、「書」という字も書けないというような事態が、今現実に起こっているのだ。

僕自身は、漢字の書きとり能力なんて、それほど大事な能力ではないと思っている。 コンピュータの助けがあれば、見栄えのよい漢字かな混じり文はスラスラ書けるし、紙とエンピツを使うメリットなんて、電源がいらないとかいうメリットぐらいしか思いつけないからだ。 将来的には、漢字の書きとりテストなんて廃止して、ただ読むだけの文字にしてしまい、常用漢字なんていう制限もなくして、「婉曲」「推敲」「辛辣」ぐらい漢字で書いてもいいことにしてもらいたいものだ。

Jul-14-1998

最近新聞に載った新学習指導要領案によると、小学校で教える漢字の数は1006字だそうだ。 いつ変更になったのかは分からないが、とにかく120字ほど増えていたということになる。 リストも載っていたが、ほとんどは読めた。 が、書けといわれるといまいち自信がないなー。

Nov-20-1998


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