いろいろな色

街の画材屋の絵の具たちの一番の関心事といえば、いったいどんな誰に買われていくのだろうかということでした。
なにしろ街にひとつしかない画材屋ですから、街中の絵を描く人々がみんなその画材屋にやってくるのです。 学校の図画の授業のためにやってきた小学生だとか、街でも有名な画家の人だとか、最近趣味で始めたというおばさんだとか(たいてい一度しかやってこないものですが)、いろいろな人がやってきては、いろいろなものを買っていきました。
絵の具たちは店にあらわれる客たちを眺めながら、あの人は自分を選ぶだろうかと、そんなことばかり考えていました。 そんななかでも黒の絵の具は、買っていかれた後のことばかりを考えていました。

——絵の具を飾っておく人はいないよね
——絵の具ってのは、絵を描くためにあるんだもんね
——中味がなくなったら、もう用なしだよね
——そしたら、捨てられちゃうのかな、やっぱり

そんなわけで、黒の絵の具は心配ばかりしていました。

そしてとうとうある日のこと、一人の女の人がやってきました。 その人は黒い髪に黒い服、黒い丸眼鏡の向こう側に黒い瞳をのぞかせて、絵の具をひとつひとつ手に取り眺めていました。 そして例の黒い絵の具を買って、家へと戻っていきました。
女の人は、どうやら画家のようでした。 彼女はアトリエを持っていました。 でもそれはそのまま自分の部屋でもありました。 大きな部屋には小さなベッドと小さな冷蔵庫、そして黒い服ばかりかかった小さなタン スがあるだけで、後は全部絵のための道具でした。
でも黒の絵の具は、外の様子にかまってはいられませんでした。 黒の絵の具は紙袋から取り出されると、そのまま画材道具入れの木の箱の中にほうりこまれてしまったからです。 そこには筆やパレットや他の色の絵の具たちが、ぎゅうぎゅう詰まっていました。 そして彼らは、新入りを見てまたにぎやかになりました。

——やあやあ、よくきたね

黒の絵の具のすぐ横にある、筆が声をかけてきました。

——ここは店と違ってきちんと並べられてはいないがね、きっと過ごしやすいところだと思うよ

黒の絵の具はおずおずと答えました。

——そうですか
——ああ。仲間もたくさんいるしね。私のようなものもいる
——あなたはいいですね、筆なんだから。僕と違って
——おやおや、それがどうかしたのかね?

黒の絵の具は、楽しそうなまわりの絵の具たちに申し訳なさそうに、そっと筆に打ち明けました。 筆はくつくつと笑って答えました。

——私は、ずっと君たちのことをうらやましいと思っていたよ
——そうですか?
——そうとも
——でも、あなたは使われて減るようなことはないし
——そう、君たちより長く使われるだろうね
——だったら、どうして僕らのことを羨むことがあるんです?
——なにしろ私は筆だからね。君たち絵の具を塗るのが仕事だ

筆は言葉を切りました。

——そうだね、いくら言葉でいっても仕方がない。そのうち分かるよ
——なにがですか?
——君たちにとって、中味がなくなるなんて大したことじゃないってことがね

そして次の日になって、女の人は絵を描き始めました。 女の人はぶつぶつと小言をいったり、頭をくしゃくしゃとひっかき回したり、ときどきベッドにひっくり返ったり、お酒をちょっぴり飲んでみたりしながら、 あれこれとキャンバスに色をつけていきました。
やがて女の人は、黒の絵の具に手をのばしました。 彼女は右手にパレットを持ったまま、左手だけで器用にふたをはずし絵の具を絞り出しました。
中味を絞られたとき、黒の絵の具はため息をつかずにはいられませんでした。 こんな調子で使われてしまっていては、一週間も持ちそうにありません。 その夜も黒の絵の具は筆と話をしました。

——すると君は、全然回りを見ていないんだね
——それがどうかしたんですか?
——まぁ君は絵の具だからね、よほど注意していないと見るのはかなわないかもしれない。私は毎日向き合っているからね

——今度箱の外に出るようなことがあったら、彼女の絵を見てみるがいいよ
——絵、ですか?
——そう。彼女が私を使って描く絵さ。彼女が君を使って描く絵さ
——僕を、ですか?

それからしばらくの間、黒の絵の具は使われることがありませんでした。 黒の絵の具はほっとしていました。 自分が捨てられてしまう日まで、一日でも長くあればよいと思っていたからでした。
でも日がたつにつれて、あの筆の言っていたこともだんだんと気になってくるのも確かでした。 あれから筆と話をする機会がありませんでしたから、やっぱりここは実際に、絵を見てみる必要がありそうでした。 そのためには、女の人が自分を使ってくれなければいけません。 黒の絵の具は、複雑な心境でした。

それからしばらくして、とうとう女の人は黒の絵の具を手に取りました。 黒の絵の具は身構えました。 中味を絞られても、彼女の絵を見てやろうと、ずっとがんばっていました。 彼女がふたを閉め箱に戻そうとしたとき、黒の絵の具はとうとう彼女の絵を見ることができました。

それはそれは、いろいろな色によって描かれた、すばらしい絵でした。 彼女の生活からはうかがい知れないほど色彩に満ちた絵でした。 でも黒の絵の具の気を引いたのは、それだけではありませんでした。 雑多な色のなかから、黒い色を見つけたのでした。 カラフルな絵の中でも、黒は大切な色でした。 それは見紛うはずもない、自分自身の色でした。

一瞬黒の絵の具は、自分が絵の一部である感覚に酔っていました。 あれは自分だ、あれは自分だ、あれは自分だ!

でも、それはやはり一瞬のことでしかありませんでした。 黒の絵の具はまた、箱の中にほうりこまれました。

それからまた黒の絵の具は、日々を考えながら過ごしました。 はたして自分はいつになったら使ってもらえるのだろうと、はたして自分はどんな絵に使ってもらえるのだろうと。
それだけが、黒の絵の具の心配事だったのでした。

おわり


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