不信者

ちょっと前の話になるが、教会の結婚式に呼ばれたことがある。 そこは結婚式場に作られたハリボテではなく、本物のクリスチャンが運営し本物の神父が式を執り行う教会で、 聞いた話では、新郎か新婦のいずれかはちゃんとしたクリスチャンでなければならないし、 そうでない連れ合いもキリスト教の講習を受けて心構えをしておかなければ使えないような場所だということだった。 祭壇の前の長椅子に座らされ、神父の話を聞き、新郎新婦が入ってきて、指輪を交換し…とお決まりの手順が進んでいくのだが、 最後の方で参加者みんなで二人の幸福を祈りましょう、みたいなことを要求されてしまった。 「何もしなくていい」と聞いていた僕は、これにすっかりうろたえてしまった。 というのも僕は、キリスト教の神様はおろか、他のどんな神も信じてはいなかったからだ。

僕は無神論者だが、神様を信じているという人にはできるだけの敬意を払うようにしている。 だから信仰厚い人に対して「神なんているわけない」とか「そんな馬鹿なことはやめたまえ」なんて無粋なことは言わない。 僕は「信仰を持ちなさい」と言われるのは嫌なので、彼らが嫌がるようなこともしないようにしているのだ。 もちろん、しつこく言い寄ってくるような人物に対しては最大限の知識と力を持って抵抗する。 だが向うが礼儀正しく無視してくれさえすれば、わざわざ言い掛かりを付ける理由もない。 信仰に限らず、他のどんな趣味でも(ま、いろいろあるけど具体例はやめとこう)他人の問題なのだから、僕の知ったことじゃないわけだ。

さて「祈り」を要求されて困り果てた僕は、仕方なく祈っているふりをしておくことにした。 ここまできて「そんなの嫌だ」と拒否するわけにもいかないし、かといって神父が油断なく観客に目を配っている中ぼーっと立っていることもできない。 でも、不信者が祈りを捧げるなんて相手に対して失礼じゃないかという気持が先に立って、どうしても祈るわけにはいかない。 そこで祈っているふりをすることにしたのだ。 なんといっても演技ならば、別に神様に対して何か要求しているわけじゃないし、まかりまちがって神様がいたとしても、地獄に落ちるのは僕だけのはずだから問題はないだろう。 もちろん、その後の賛美歌斉唱のときも、歌詞に合わせて口をパクパクしていただけで声を出すことはしなかった。 教会での結婚式には今後絶対行かないようにしなきゃなあ、と思いつつ。

信じてもいないものに敬意を払うなんて、なんかばからしい気もする。 だが相手が真剣であればあるほど、部外者が口を挟んだり、勝手に振る舞ったりするようなことができなくなってしまう。 たとえばクリスマスというのは、キリストが生まれた日を祝う行事だが、 洗礼も受けておらず、日曜日に教会に行ったこともないような僕が、そんな日にお祝いなんてとてもじゃないがやっていられない。 バレンタインデーも似たようなものだ。 確かバレンタインというのは、色々あって異端者に火刑にあった殉教者だったと思うのだが、そんな日にチョコレートをもらってもちっとも嬉しくないのである。

もっとも世間一般では、その日だけとにかくお祝いしてしまうというのがあたりまえになってしまっている。 まるで花見に行って花を見ず、酔って桜の木を折るような、滑稽を通り越して醜いとしか思えない話だ。 そういう事態にあって、クリスチャンの反応は驚くほど冷静だ。 クリスマスには当たり前のようにミサをやって、いつも通りにお祈りを捧げている。 似非クリスチャンが浮かれ騒ぐ様子に、強く抗議するようなこともないらしい。 もしかしたらそういう行事で関心が高まり、信者が増えるかもなんて思っているのかもしれない。 が、これほどの冒涜にあってもなお慎ましくしていられるのは、これが信仰の成せる技かと感心してしまう。 この世から宗教がなくならないということなら、彼らにこそ最後に残ってもらいたいものだと願ってやまない。

Dec-27-1998


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