自己嫌悪

「あなたはどういうタイプ(性格)ですか?」と聞かれることがある。 たぶん相手は「明るい」とか「暗い」とか、「おしゃべり」とか「聞き上手」とか、 「アウトドア派でスポーツ大好き」とか「読書と映画鑑賞が趣味のような奴」とかいう回答を期待しているのだと思うが、 僕は大抵「見た通りですよ」とか「どういう性格だと思いますか?」と逆質問してしまう。 というのも、ある人物がどんなタイプかを判断するのは、本人ではなくて他人だと思っているからだ。 仮に自分で自分を「明るい性格」と思っていたとしても、他人はそれぞれ違う意見かもしれない。 「確かに明るい」と判断する人もいれば「いやどっちかといえば暗い」と思う人もいるだろう。 そういう判断は、それぞれの人のモノサシで測られるものだから、全員の意見が一致するとも限らない。 結局、僕の性格を知りたがっている人が、自分で判断するしかないのだ。 そのためには、僕の普段の行動や言動を調べ、自分の知人たちとその評価と比較し、結論を出すことになるだろう。 そういうのをハショって本人に尋ねてしまうのって、まあなんというか、まじめに答える気力が失せる。 それが原因だかどうかは不明だが、先日「あなたは自分のことを話さない人だねえ(だから性格がよくわからんよ)」と言われた。 普段、自分のことをしゃべりすぎてるなあと反省することが多い僕には、これは大変嬉しい言葉だった。 まあそれはその人の判断なので、普段常にいつもそうであるかは謎だが、少なくともそう思ってくれる人がいるというだけで満足だ。

似たような質問に「あなたって●●な人でしょう?」というのもある。 これもなんとも返事のしようのない質問だが、しょっちゅう同じことを言われていると「よく言われますよ」と答えることもできるようになる。 たとえば僕は、人情家とかウィットに富むとか涙もろいなどと呼ばれたことは一度もないが、 クールだとかドライだとかシニカルなどと言われることはよくある。 それをまとめてロボットみたい、と総括するのだが、もちろん自分ではどうなのか判断できない。 ただ、感情に流されるタイプだと言われるぐらいなら、論理的な人間だと言われるほうが嬉しい。 それが非人間的だと思われてもだ。 そんなのが人間的だっていうなら、ロボットの方がずっといい。

正直言って他人の性格評価って、その本人に言っても意味がないと思う。 たとえばシニカルと言われて僕はうれしいが、本当に自分がシニカルかというとそれはどうかな、という気がする。 どっちでも、どうでもいいのだが、どちらかに決めろと言われればノーだと思う。 シニカルって、もっとずっとカッコよくて、とても今の自分とは一致しないものなんだという気がしてならない。

強いて自分の性格をいうなら、「史上最低のお人好し」だと思う。 「史上」というのは語呂合わせで、世界で一番といいたいわけじゃないのだが、まあだいたいそんなところだろう。 これは「優しい」と勘違いされるので便利なこともあるが、逆につけ込まれると骨まで削られて大変だ。 それは自分の問題だと分かっているのに、相手にも腹を立ててしまうのもうんざりだ。 ようするに今の自分は、ちっとも好きになれないのだ。

とかなんとか、こういうのをネタにするのってあざといなあ。 なんか20歳ごろに戻ったような感じ…。 あー嫌だ嫌だ。

Jan-26-1999


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